わいわいフォーラム「鉄盟団」
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投稿者 スレッド: 酩酊上人のご法話集  (参照数 8469 回)
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al-fasa
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« 返信 #90 投稿日: 11月 26, 2011, 06:20:40 午後 »

「安売りの功罪」

 近江商人の心得の「三方良し」
 お客様は買って満足。商人は売れて満足。また商品を作った職人も自分の作品が人の役に立つことに満足を覚えるのです。

 世の中不況で、ディスカウントが流行り
。確かに安いことは有難いことですが、そこに「三方良し」の精神はあるじゃろうか? 
メーカーは、納品先にコストダウンを迫られ眉をひそめる。売り方も薄利多売で青色吐息。そして買い手もどうせ安物だから…と物の価値を色眼鏡でみてしまい、そこに満足感はありませぬ。

買い物は売り手買い手、造り手が楽しくあらねばのぅ
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« 返信 #91 投稿日: 11月 26, 2011, 06:22:10 午後 »

「琢磨」

「琢するが如く磨するが如しとは 自ら修むるなり」(大学) 
思うに、人は人生という修行において「心」すなわち「人格」という玉を穿ち、磨いていくことが人の一生ではあるまいかのぅ。
 善なる心は玉の丸きが如し。丸いので、人生の道を順調に転がっていきますのじゃ。
 一方、悪しき心は形が悪い。楕円形であったり出っぱっておったり。
だから道を転がっていくと、飛んだり跳ねたり、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、果ては止まってしまいますのじゃ。

善き心を。
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« 返信 #92 投稿日: 11月 26, 2011, 06:25:48 午後 »

「意志」

「幾たびが艱難を歴て志初めて堅し」(西郷隆盛)

 一度自分が決めたことは貫き通す。これが意志というものじゃ。

「意志は石」

 少々の逆境でも石のごとく、固く、重く動かぬものであらねばなりませぬ。
それ、そもそも「志」とは

「心座す」

 心が座る、すなわち肝っ玉が座っていることですじゃ。
つまるところ、人生とは「己との戦い」 そして、甘えたい、遊びたい…様々な欲望の誘惑に負けず、己を律する生き方の指標が、先人が示した様々な箴言というものですじゃ。

「隠雲霧不動山 紛欲情不喪心」(酩酊上人のご法話1)
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« 返信 #93 投稿日: 11月 26, 2011, 06:27:40 午後 »

「度量」

 他人がやらない所、やりたがらないような所や、特に汚れが酷い所をお掃除していますと、だんだんと時間はかかりますが、磨いている場所が本来の輝きを取り戻します。
始めは必死です。力任せ。
しかし、いつしかコツを覚え、だんだんと心が澄み、涼やかにお掃除ができるようになります。
心が澄んできますと、普段気づかないような所の汚れに気づき掃除の範囲が広がったり、もっと効率のよい方法を思いついたりいたします。

「掃除する範囲が人の心を広げ、その仕上がりが、その人の心を深くする」

多分そうなんじゃろう
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« 返信 #94 投稿日: 11月 26, 2011, 06:29:51 午後 »

「無料の対価」

 物には必ず対価がありますのじゃ。
無料、ただと聞いて得をしたと喜ぶことなかれ。

無料の物には、品位という対価を払っております。

 「ただだから」…と使いきれないぐらいもらってくる、あるいは物を粗末に扱う者は、それだけ多くの品位を払っていることを自覚することです。

物だけではありませんぞ。
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« 返信 #95 投稿日: 11月 26, 2011, 06:31:23 午後 »

「トイレの神様」

 植村花菜の歌、おばあちゃんの言葉、

「…トイレには、それは、それは、綺麗な女神様いるんやで」

 家相という言葉があります。
思うに、玄関がその家の顔ならば、厠はその家の心。
転ずれば、そこに住む人の顔であり、心でありますのじゃ。

トイレにおわす神様は、女神様というおばあちゃんのお話、良く解ると思いませぬか
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« 返信 #96 投稿日: 11月 27, 2011, 06:07:35 午後 »

「お金の心配」

お金はないより、あるにこしたことはありませぬ。
しかし、お金の魔力は満足と言う言葉を知らぬことです。
持っていても、足りない。足りないと不安を煽る。

本当は「お金の心配」なんてものはありませんのじゃ。

「財を生ずるに大道あり それを生ずるもの多く それを食するもの少なく それを作るもの疾く それを用いるものおもむろなれば 財常に足る」(大学) 

きちんとした収入があり、無駄遣いせず、いざ使う時も慎重に使っておれば、足りないなんてことはないんじゃよ。
分をわきまえず使うから足りないんじゃ
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« 返信 #97 投稿日: 11月 27, 2011, 06:09:24 午後 »

「言い争ったら…」

国会の論争しかり、議論の結果双方が納得する結論を出せれば、その価値はありましょうが、相手をただ論破することが目的の討論という言い争いが多い。
仮に論破したからと言って得られる物は一時の虚栄。
故に論破されて失うものなど些末なものです。 

「言い争ったら相手が正しい」

「…そうだね、そういう考えもあるかもしれないね」と、さっさと矛を収めてしまう方が有意義じゃ。

「君子は坦として蕩蕩たり 小人は長として戚戚たり」(論語)

小人は人に勝ろうとしてあくせくします。
広い心をお持ちくだされ
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« 返信 #98 投稿日: 11月 27, 2011, 06:12:35 午後 »

「無私」

常々思うんじゃが、肉体は心を閉じ込める「殻」じゃ。
例えば心は想像力で瞬時に世界中を旅することができ申す。
しかし肉体がそれを阻む。 
意識して何かを行う時、心は肉体に指令を下す…転ずれば心は肉体に束縛されている。
故に我々が無意識で何かを行う時、心は肉体から解放されているんじゃと思いますのぅ。

「我」「私」は、「欲」を好みます。
曰く「我欲、私欲」 

欲とは肉体がそれを欲するのじゃ。
心を我が身可愛さの「欲」から解放する(私を無くすこと)が「修行」であり、修行の一つに「勤労」がありますのじゃ。
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« 返信 #99 投稿日: 11月 27, 2011, 06:14:26 午後 »

「運命と宿命」

「大丈夫命を造るべし 命を言うべからず」(英雄は運を自ら切り開く、吉凶を運命としない)

 万事「運が良かった(悪かった)」と片付けてしまう事は容易い。
しかし、運を天に任せてばかりおっては、まさに「命が運ばれて」来るのを待っているようなもの。

「宿命」とはまさしく「命が宿る」
 自身の心に「使命」という、太い柱を立てる。
その柱に天意(天命)が宿りますのじゃ。それ、英雄は運すら使役するから「使命」じゃ。

「五十にして天命を知る」(論語)

運ばれて来るのを待っておっては、天命を知ることは叶いませぬ。
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« 返信 #100 投稿日: 11月 27, 2011, 06:26:14 午後 »

「ズレを楽しむ」

二十四節季をご存知かのぅ。
二十四節季の中に「大寒」(1月20日ごろ)があります。
「大寒」とは寒さが最も厳しくなる頃とされていますじゃ。

理論的に考えると、日照時間が最も短くなる「冬至」の頃が一番寒いと考えがちじゃが、昔の人は大地や大気が冷えるまでの時間差を体感しておったのじゃな。
また、それぞれの二十四節季それぞれに行事や食べ物の旬がござって、昔の人は季節の変化そのものを楽しむ“余裕”があったようですじゃ。

今では千年に一秒も狂わない正確無比な時計もあるそうじゃが、昔の人のように「季節のズレ」を楽しむ余裕がほしいものですじゃ。

いかがかのぅ。家の時計を五分遅らせてみては?
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« 返信 #101 投稿日: 11月 27, 2011, 06:28:43 午後 »

「人と神(仏)様の間」

 仏教は自身の心中に菩薩様がおり、その菩薩様を表に引き出すことがご修行です。
キリスト教になりますと、神様はご自身のお姿を模して人間を創造されたとあります。
神道は死すと皆神様になります。
…我々が崇める神仏は皆、我々と微差、僅差ほどの違いしかないと思いますのぅ。ただ、ほんの少しの…しかも決定的な違いですじゃ。

  …それは「我(私)」の有無。

  皆多かれ少なかれ「我」を持っております。「我」とはときに「プライド」であったり「人格」であったり…

我々が生きていく上で、多少の「我」は必要。しかし成長とともに「我」も増長します。
老子が「嬰児に復帰す」と、赤子を道の範とするように、赤子は「我」が発達しておらぬゆえ神に等しいとされますのじゃ。
が、生きて行く上で皆赤子に戻るわけには参りませぬ。

故に、我々は少しでも「我」を張らず「譲りあって」生きること、それが現世でのご修行であると思いますのぅ。

神社に行きますと、鏡が御神体として祭られております。
そこには神様の姿が写るとされております。
俗人が鏡の前に立っても、そこに写るは己自身の姿じゃ。
しかし、その人がもし「我」を捨て去った清い心で鏡の前に立ったとしたら、そこに写る姿はいかがじゃろぅ。
試しに「かがみ」から「が」を抜いてよんでみなされ(-人-)
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